昭和20年7月28日、福島発の東北本線上り上野行きの「第118号旅客列車」が小金井駅(栃木県)停車中に、米軍のグラマン艦載機3機から3回にわたり波状攻撃を受けてから今日で71年となった。今日、小金井駅を訪れた。
駅西口広場にはこの戦災の慰霊碑である「平和の礎」(1998(平成10)年建立)が置かれている。
裏には、設置当時の国分寺町(現 下野市)町長の筆による碑文が刻まれていた。
私が「第118号旅客列車 小金井空襲」を知ったのは、約3年前の地元紙・福島民報に記載されていた投書。民間非武装の旅客列車を攻撃した事実に驚くとともに、福島駅発ということは、二本松や郡山にて停車しており、私の知る人の家族が巻き込まれた可能性があるのではと思い心を痛めた。
そして、この投書の件を当日のブログに「昭和20年7月28日 小金井空襲」という題で残した。
すると、今年の5月に当の鈴木敏夫さんからハガキが届き、その後に「第118号旅客列車 小金井空襲」に関する資料を郵送していただいた。鈴木さんは、小金井駅に勤めていた元国鉄職員だった。
投書にもあるように、亡くなった31人は“身元不明者”として旧壬生町の無縁墓地に運ばれたというが場所が特定できず、福島方面にご遺族が居れば何か分かるのではないかと『縁は異なるもの味なも』(鈴木さん筆)と勇気を出して福島民報に投稿したという。
鈴木さんからの資料や添えられた手紙には「第118号旅客列車 小金井空襲」の詳細が書かれていた。『当時の戦災状況は、政府当局から厳重な箝口令が敷かれていた』『当時は負け戦の戦争末期で、医者は戦場に駆り出され、医薬品は底をついて殺菌消毒の薬のみしか無く...』、『(戦後、米軍占領下で)病院などで亡くなった人たちは、密かにお葬式を家族のみで済ませた...ために、“無縁仏になられた乗客たち”の遺族の皆さんも、未だ帰らぬ身内を大々的に捜索することに抵抗があった...』、など終戦前後の極限状態の中、なぜ犠牲者が無縁墓地に埋葬され、その場所さえ秘されたのかが分かった。
国内で、一般市民を含む自国民が亡くなりながら、身分を特定する努力がなされないまま無縁仏に埋葬され、その墓の場所さえ特定されないという「第118号旅客列車 小金井空襲」の悲しい史実は、もっと知られるべきだと思う。また、おそらく、この時期には全国各地で同様の事が起こっているかもしれない。
戦争を知らない私は、できる限り戦争で起こった出来事を知っていきたいと思う。
(了)
根本 潤(福島県郡山市)
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