被災地訪問(石巻市ほか)

仕事が休みを利用して、宮城県沿岸の被災地である東松島市、石巻市、女川町を訪れた。

私は東日本大震災後の2011年3月38日に、当時住んでいた埼玉県川口市からレンタカーを借りて、宮城県沿岸部から南相馬市まで南下して津波の被害を見た。以後、以後2013年を除き、毎年3月28日に大川小学校がある石巻市と復興著しい女川町を訪れていた。


  

石巻市でレンタカーを借り、まず自衛隊と米軍が“トモダチ作戦”を展開したJR仙石線・旧野蒜駅(東松島市)に向かう。

駅は鉄路ともに、内陸側約500mの海抜22mの場所に移設された。 *参考:三陸河北新報社 石巻かほく「米軍が野蒜駅のがれき撤去 ー自衛隊と共同任務/トモダチ作戦の一環」(2011年4月22日)

駅舎は、昨年5月に市が震災遺構として残す方針を出した。「東松島市震災遺構保存活用方針(案)に関するパブリックコメント」では『残すものとしての生活が強い』『強いて言うなら遺構として残すのは構わない』『震災・津波被害が一目瞭然で感じられ、見た者に強く防災意識を植え付けられる』などの肯定的な意見が多かったという。震災遺構を残す残さないの過程は、行政手続きと市民参画の参考となる。

 

野蒜駅を出て石巻方面に車を走らせると、内陸部に真新しい高架線が見えた。移設されたJR仙石線だ。

周辺では、鳴瀬川堤防上の道路整備などが行われていた。

道路には10tダンプがあふれ、土煙が絶え間なく舞っていた。

 

石巻市街地が近づくと、人の姿も見られた。重機を向こうに見ながら、母親に手を引かれる幼子の様子が印象的だった。

 

 

石巻市街地を抜け、女川町に入る。景色が一変した。空間は土色が占め、多量の土砂が嵩上げ工事のために使われている事を実感した。

5年前と比べると、この“人工感”を一層感じる。人々の安心安全か、自然への挑戦か。東日本大震災の復興は、人間の英知と自然の脅威が織りなされた人類の歴史を思い起こさせる。

 
女川町駅地域医療センターがある高台からJR女川駅周辺で開発が進む町の中心部を見る。

商業施設もでき、駅西側の新造宅地には、新築の住居が出来あがろうとしていた。せっかく街を新造したのにも関わらず、電柱地中化がされていなかったのが気になった。意図的なのだろうか。

 

“市街地”の正面に広がる港は、ほぼ全ての建物が取り除かれていた。緑地が整備される予定となっている。

 

内陸部や高台に宅地が造成され、真新しい住居が建ち始めていた。どこまで住民が戻り、新しい街並みが町の想定通り生まれるのだろうか。

 

JR女川駅を背に、海へと続く、両側に商業施設をともなった幅15mのプロムナード(遊歩道)を見る。

女川町は東日本大震災の沿岸部で、早くに大型の復興計画をまとめた先駆者となっている。

女川町の街づくりへの挑戦は、電源交付金を受ける自治体が復興財源に支えられ進めるという特異なケースと映りがちだが、少子高齢化・厳しい財政状況の中でどのような街の形を目指し、行政運営してゆくかの見本となる可能性があると思う。私は、女川町の今後に注目してゆきたいと思っている。

 

 


女川町を後にして、更に北上し、再び石巻市に入り、雄勝町を越えて、大川小学校跡に向かう。

校舎は、ほぼ当時のままだ。2011年3月11日14時46分、教室で帰りの会が開かれる前後に激しい揺れに襲われ、親御さんなどの迎えで帰るなどした児童も居たが、78人が残り校庭で先生(11人)の指示を待った。ようやく、15時30分過ぎに近くの高台である“三角地帯”に移動を開始したが、その直後に3km以上下流にある追波湾から北上川を塑像してきた津波に襲われ飲み込まれてしまった。児童70人が無くなり、4人は未だ行方不明で、教職員10人も亡くなった。

一昨日、石巻市長はこの「大川小学校被災校舎」を震災遺構として保存を決定することを決定した。

 

この校舎は多くの事を教えてくれる。お子様を無くされたご遺族の心中を思うと申し訳ない気持ちになるが、子ども大人を問わず多くの方がこの地に立ち、84の御霊に首を垂れながら当時起こった事を思い、災害時や“想定外の事態”に自らが何をすべきかを考えて欲しいと、私は考えている。それが残された者の務めであり、悼みになると思うからだ。

 

 

大川小学校を後にして、石巻市内に戻り、レンタカー返却後にJR仙石に乗る。

途中、“新しいまち”にできた新駅「石巻あゆみ野」で途中下車する。

「石巻あゆみ野」は東日本大震災の防災集団移転団地等を備える「新蛇田南地区被災市街地復興土地区画整理事業地」の南にあり、JR仙石線の陸前赤井駅ー蛇田駅間(3.5km)に新設された。駅からは車-自転車-歩行者用に区切られた真新しい道が災害公営住宅に向けてまっすぐに延びていた。

「石巻あゆみ野」駅は請願駅であるため、事業費約4億8,200万円を石巻市が全額負担した。1日上下19本の普通列車が停車し、市は約300人/日の利用者を想定しているという。住宅地への新設なのでもっと利用者は増えるだろうと思うが、沿岸部からの移住者で車利用の生活に慣れているため使わないのだろうかと思った。

 

郡山市でも来年春を目指し新駅「郡山富田」(郡山~喜久田間、7.9km)に開業される。「石巻あゆみ野」と同じ、1面1線の無人の請願駅だが、建設費は10億円とも20億円とも言われている。20億円ならば、4つの駅ができてしまうという巨費である。

建設費では対比的な2つの駅であるが、新駅が地域の街づくりにどのような影響を与えるか、今後も注視してゆきたい。

 

 

これで、沿岸部被災地を巡りを終えた。

「石巻あゆみ野」で再び列車に乗り、多賀城駅を経て、帰宅の途についた。

(了)

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根本 潤(福島県郡山市)